夢の中では、自分が自分でなくなることがあります。知らない場所にいる。
知らない人になっている。
現実では言えないことを言い、しないはずのことをしている。
目が覚めれば、それはただの夢だったとわかります。
けれど、ときどき人は、その奇妙な感覚を朝の世界まで持ち帰ります。
19世紀の終わり。
ひとりの作家が、夢の中で人間の変身を見ました。
その一夜の光景は、やがて一冊の物語を動かす鍵になります。
人の中に潜む「もうひとりの自分」を描いた物語の始まりには、ひとつの夢がありました。
眠りの中の小さな劇場
『宝島』で知られるロバート・ルイス・スティーヴンソンは、夢をよく見る作家でした。
彼にとって夢は、ただ眠っている間に流れていく不思議な映像ではありませんでした。
そこには物語があり、登場人物がいて、ときには昼間の自分では思いつけないような場面が現れました。
スティーヴンソンは、眠っている間に自分のために物語を作ってくれる小さな存在を、「ブラウニー」と呼んでいました。
ブラウニーとは、スコットランドなどの民間伝承に出てくる小さな妖精のような存在です。
人が寝静まったあと、家の仕事をこっそり手伝ってくれるともいわれます。
スティーヴンソンにとって、夢の中のブラウニーたちは、物語づくりを手伝ってくれる不思議な仲間のようなものでした。
ふたつの顔を持つ人間
そのころ、スティーヴンソンが長く考えていたテーマのひとつに、「人間の二重性」がありました。
人は、いつも同じ顔で生きているわけではありません。
人前で見せる顔。
ひとりのときの顔。
理性で隠している顔。
自分でも認めたくない顔。
昼の世界では、私たちは自分を整えて生きています。
言葉を選び、態度を整え、できるだけよい自分でいようとします。
けれど、心の奥には、簡単には片づけられない感情があります。
怒りや欲望、恐れ、誰にも見せたくない弱さ。
スティーヴンソンは、そんな「人の中にいるもうひとりの自分」に強くひかれていました。
物語を探していた夜
スティーヴンソンは、この「人間の二重性」を物語にしたいと考えていました。
けれど、考えはあっても、それをどう形にすればいいのかが見つかりません。
テーマはある。
でも、物語が動き出さない。
そんな時間は、創作をする人にとって、とても苦しいものです。
何かがあることはわかっている。
けれど、まだ名前がつけられない。
登場人物も、場面も、物語の形も見えてこない。
昼間に考え続けても、答えが出ないことがあります。
けれど、眠りについたあと、心は別の形でその続きを考えていることがあります。
スティーヴンソンの夢も、そんな夜に訪れました。
探していた物語は、眠りの中で、ひとつの場面として姿を現します。

夢に現れた変身
その夢の中で、スティーヴンソンは恐ろしい場面を見ます。
追いつめられた男がいる。
その男が薬を飲む。
そして、目の前で別の姿へと変わっていく。
それは、ただ姿が変わるというだけの夢ではありませんでした。
人の中に隠れていたもうひとつの顔が、外へ出てくる。
昼の自分では押さえ込んでいたものが、別の体を持って現れる。
その場面には、スティーヴンソンが探していた物語の核がありました。
人は、本当にひとつの顔だけで生きているのか?
もし心の奥にいるもうひとりの自分が、はっきり姿を持って現れたらどうなるのか。
探していた物語の入口が、そこにありました。
夜から持ち帰ったもの
目覚めたあと、スティーヴンソンはその夢をもとに物語を書きはじめます。
薬を飲んだ男が、別の姿へと変わる。
その入口から、物語は動き出しました。
善良で、社会的な地位もあるジキル博士。その内側から現れる、凶暴なハイド。
最初は自分の意思で変身していたはずなのに、やがてハイドは力を増していきます。
隠していたものを解き放つほど、元の自分へ戻ることが難しくなっていく。
もうひとりの自分を生み出したつもりが、いつの間にか、その存在に飲み込まれていく。
夢の中で見た「変身」は、そこから、人間が自分自身をどこまで支配できるのかという物語へ広がっていきました。
やがて、その物語は一冊の小説になります。
『ジキル博士とハイド氏』。
スティーヴンソンが夜から持ち帰ったのは、男が別の姿へ変わる、ひとつの仕掛けでした。
けれど、その仕掛けは物語の中で、人間の心そのものを映すものになっていきます。
誰にも見せない顔。
正しくありたい自分。
抑えきれない欲望。
自分でも認めたくない部分。
そうしたものを抱えている感覚は、時代が変わっても消えません。
夢の中で見たひとつの変身は、小説になり、やがて人間の二面性を語る言葉として残っていきました。
夢の中では、ときどき、昼には見つからなかった形が、思いがけない姿で現れることがあります。
今夜見る夢の中にも、まだ名前のない何かが、静かに姿を見せようとしているのかもしれません。
(文・熟睡アラーム編集部)
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