夜のあいだに聞いた音が、朝になっても、耳の奥に残っていることがあります。
はっきりした旋律ではないのに、どこか離れない響き。
思い出そうとすると遠ざかり、手放そうとすると、ふと戻ってくる。
18世紀のイタリアに、そんな音を夜から持ち帰った音楽家がいました。
夢の中で聞いた旋律が、ひとつの曲になったと語られている人物です。
音を追いかける人
ジュゼッペ・タルティーニは、ヴァイオリンの演奏家であり、作曲家でもありました。
音は、目に見えません。
けれど、確かにそこにあり、人の感情を動かす。
わずかな揺れ。
重なり。
消えていく余韻。
それらを聞き分け、もう一度、同じように鳴らそうとする。
音をつかまえ、形にする。
タルティーニは、そんな見えないものを追い続けていました。
夢の中の演奏
ある夜、彼は奇妙な夢を見ます。
夢の中で、ひとりの存在がヴァイオリンを手に取りました。
それは人の姿をしていたとも、そうではなかったとも言われています。
弓が弦に触れた瞬間、音があふれ出します。
速く。
鋭く。
絡み合うように重なりながら、途切れることなく続いていく。
それは音というよりも、ひとつの流れでした。
追いかけようとすると、すでに次へ進んでいる。
どこから始まり、どこで終わるのかもわからない。
ただ、その場に満ちている。
あまりにも美しく、そしてどこか、人の手を離れているような響き。
タルティーニは、ただ息をひそめて、それを聞いていました。

目が覚めたあと
目を覚ましたとき、耳の奥には、まだあの旋律が残っていました。
消えてしまう前に、彼は楽器を手に取ります。
指を置き、弓を動かす。
確かに聞いたはずの流れを、ひとつひとつ、たどろうとする。
けれど、同じ音にはならない。
速さが違う。
重なりがほどけてしまう。
つながっていたはずのものが、途切れていく。
もう一度。
もう一度。
思い出せるはずなのに、少しずつ形が崩れていく。
さっきまでそこにあったはずの音が、指のあいだからすり抜けていく。
あせりの中で、彼は弓を動かし続けます。
追いつこうとしても、追いつけない。
近づいたと思った瞬間、すでに違うものになっている。
夢の中で聞いた音は、そのままの形では、どうしても再現できませんでした。
それでも彼は、残っている断片を拾い上げるように、弾き続けました。
悪魔のトリル
こうして形になった曲は、後に「悪魔のトリル」と呼ばれるようになります。
速く、複雑で、演奏すること自体がひとつの挑戦のような音楽。
けれどタルティーニは、それを完成だとは感じていなかったのかもしれません。
あの夜に聞いたものは、もっと遠く、もっと届かない場所にあった。
この曲は、そこへ手を伸ばしたあとに残ったもの。
夢の中の音と、現実の音とのあいだにある、わずかなずれ。
そのずれごと、曲の中に残っているようにも感じられます。
夜から持ち帰ったもの
夢の中で聞いた音は、そのままでは残りません。
目を覚ましたとき、少しずつほどけていく。
それでも、すべてが消えてしまうわけではありません。
ひとつの響き。
わずかな流れ。
耳の奥に残る気配。
それらを手がかりにして、もう一度、形にしようとする。
タルティーニが持ち帰ったのは、夢の中の音そのものではありませんでした。
消えかけた旋律と、それを追いかけ続けた時間でした。
夜のあいだに聞いた音は、朝の世界で、少し違う形になります。
けれどその中に、あの瞬間の気配が残っていることもあります。
今朝見た夢の中にも、まだ音にも言葉にもなっていない何かが、静かに響いているのかもしれません。
(文・熟睡アラーム編集部)
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